※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます
● 8月24日(木)~9月10日(日)
こもれ陽☼陽だまり展 芝田典子(彫刻)/村田純江(絵画)
「彫刻と絵画だが、共にひかりを重要なテーマとしている。芝田典子は、光を連想する、穴、螺旋、鳥、葉などを形にして、光の現象を、木や石の彫刻で表現している。村田純江は、空気感AIRをテーマに、祈りと希望を込めた光を、土顔料で表現している。共通のテーマで取り組んだ其々の作品と、彫刻と絵画のコラボレーション作品も制作して展示致します。」(作者コメント)
・芝田典子
「自然の生命力、美しさ、特に光に注目しています。光とは、熱をもっているため肌で感じ、目には私たちの日常に当たり前に映っています。ただ、目に映る光の感覚も人によって違い、光とは形があるものではありません。肌で感じる「光」に触れ、目で見ることのできる形にできないかと思っています。」
・村田純江
「空気感AIRの、特に光を重要なテーマとして、祈りと希望を込めた光を、イタリア、フランス、スペイン、キプロス、エジプトなどの土の色を木綿布の裏から染み込ませた滲みで表現しています。」
村田純江(絵画)/芝田典子(立体)コラボ
「こもれ陽-陽だまり」
コラボ作品 2023
村田純江
「AIR-気溜まり」
194×336 2018年
「AIR-孕むひかり-」
227×326 2017年
「AIR-陽だまり」
227×324 2019年
「AIR-フツフツと湧き出ずるもの-」 227×293
2023年
「AIR-歪み」
227×324 2022年
「AIR-揺れる」
228×326
2013年
「AIR2008」 170×200 2008年
「AIR-纏う」(タペストリー) 250×165 2021年
「湧き出ずるものA」 S50 2023年
芝田典子
「こもれび」 (欅) H150 W100 D30 2022年
「昇」(大理石) H60 W38 D30 2015年
「葉隙流光」H90 W110 D40 」(樟木)
2023年
「飛翔」(樟木)
H52 W46 D43 2021年
「希望」(樟木)
H50 W55 D26 2021年
「幸福な時」(大理石)
H56 W30 D35 2017年
「こもれ陽-陽だまり」部分
左より「流」「夢想」「光路」「光路」
こもれ陽☼陽だまり展に 宇フォーラム美術館館長 平松朝彦
今回の展覧会の特徴は、平面絵画と立体彫刻のコラボにある。村田氏と芝田氏のお二人は以前から知人であり、二人展の企画は偶然に生まれた。テーマのこもれ陽は、木漏れ日とも書く。都会ではあまり見られないかもしれないが、良く晴れた日、鬱蒼とした森の地面に明るい丸が点々と現れる光学的現象。そのことに二人の作者は着目した。まずは二人のデュオ作品、「こもれ陽 陽だまり」であるが、平面作品の前にたくさん吊るされた穴の開いた木のオブジェ。そのオブジェの穴から光が平面作品に漏れて「こもれ陽」ができる。平面作品は、そうしたこもれ陽がたくさん当たる三次元的な光の作品となる。これは画期的なアイデアといえよう。
そもそも二人の作家によるデュオは、私の知る限り稀有(例えば宗達と光悦のコラボ)はあるが、平面と立体では初めてか? まず村田氏の作品であるが、絵画にも穴が開いている。当館に「Destroy
the picture」(Skira Rizzoli出版社、ニューヨーク)という大版の洋書がある。既存の絵画の概念を壊す試みのダダイズム的、暴力的作品を網羅したものでキャンバスに穴を開けたり、切ったり、下地を縫ったり従来の絵画の概念を破った作品群が紹介されている。しかしこの作品にはそうした意図や衒いはなく、自然体で生まれた作品である。
今回の村田氏の作品は、5つの国の土を顔料として使い、ビールで薄めて描いたものだという。つまり塗るペイントではなく dyeing (染める)ということ。この染めるということについては、当美術館の会報でアメリカの1960年代のシミ派を何回か紹介してきた。まさに今回の作品群はシミ派そのものである。村田氏の作品はそもそも固い支持体ではなく、空気AIRを感じるカーテンあるいは綿シーツのような布によるソフトなもの。それらを重ねたり、膨らませたり、裏から描いたり表から描いたりした。絵の裏から見ると想定外の表現となる。そのことにより表現は多様化して、味わいが増す。たとえば日本画の若冲は、絹本作品で裏から着色したことが知られている。また、当館の設立者である平松輝子は、多くの和紙の墨作品を、両面を使って描いたが、そのことで表現の幅が広まることを発見し、たくさんの作品を制作した。ただし裏から描けばいいという偶然性に任せたものではなく、やはりそこに作者の才能が求められる。話は戻るが、この5つの土の色は、柔らかくパステル調だがそれだけではなく濃淡のグラデーションがあり、単調にはならない。さらに「AIR2008」はもはや絵画ではなく立体オブジェである。痛快なほど自由自在。
今回の芝田氏の彫刻作品は石と木がある。彫刻、立体とは物体である。しかしそれに穴をあけて、その「空」、あるいは「虚」の部分も作品化できる。今回の展示作品にはそうした物体的なものとそうでないものがある。たとえば、たくさんの穴が開いている石と木の作品には、縦に開けた穴、側面に開けた穴、さらに丸い木の中をくりぬいたもの、それらが組み合わさったもの、などのバリエーションがある。さらにリンゴをむいた皮のような螺旋形。村田氏の絵のように薄いパステルの色が着色されユーモラスな鳥や花になる。それらは生きているかのように有機的で見ていて楽しい。さらにいくつかの作品にみられる美しい色のグラデーションは従来の彫刻のイメージを超える。それはまた、絵画的彫刻といえるのかもしれない。少しルネ・マグリットの世界を感じた。
芝田氏は現在、台湾で活動しておられる。日本より台湾の方が美術界は活発だそうだ。今回、熱心な台湾のコレクターの方も訪れた。新コロナ騒動の時は、日本と台湾の交通が遮断され、この展覧会の時期も予定より遅れたが結果的にこれらの作品をつくる時間を持てた。最後に今回の企画を考えられた望月厚介氏に謝意を表したい。
寄稿
こもれ陽 ☼ 陽だまり展に
芝田典子(彫刻)/村田純江(絵画)
詩人 八覚正大
最終日一日前に伺い、最終日も観にきてしまった。
芝田さんの作品は、一件可愛らしさが喚起され、メルヘンチックとも言いたくなる。しかし、それを超え進化させていく作者の意匠が、すぐに伝わって来た。小品「光路」(二作)は木彫の穴をあけた作品、既視感のある落ち着いた、でも面白い作り。「流れ」は流動感が、「夢想」も流動感から何かリボンのような小さな止め板で数か所止めれている、それがまたちょっと愛らしい(これは釘を使わずに木のみで止める日本独特の木釘的発想からと)。次に向かうと、「希望」この青い鳥の作品は穴から螺旋形への移行が見られ、横からは鳥だが前から見ると青く立った両翼がウサギの耳のようにも見える、耳の先と内部は金色に輝く銅粉が塗られている。
そしてさらに意匠の広がった作品「飛翔」。鳥から動物的身体へ、また下部は植物的な葉の形もあり、ピンクと薄紫がアニメの主人公を連想させたりも……。「幸福な時」は小ぶりの大理石の少し以前のオーソドックスな作品。そして今回のお二人のコラボ作品「こもれ陽 陽だまり」が、二階第一室の奥に。大きな豆の殻に穴を開けたような作品が七つ八つ吊るされ、それを優しく受け止めるように絵画の作品(村田さんの)が背景に展開されている。殻はアフリカ仮面のようにも見え出し、それが楽しく踊り出す雰囲気。一室最後の「昇」は大理石の板に穴を開けた少し以前の作品。
さて、第二室奥の部屋には二点、中央に「こもれび」が、これは板に穴を数十個開けた作品。一見した時はオーソドックスで落ち着いていて、しかも此方の既存の感性にフィットし好感が持てた。穴をあけた系列のものだが作られたのは昨年と。最後に奥の角に……これはまた、大きな目と顔が蛇のような、身体は鳥のような、尻尾は蜂のような、で植物の葉に乗っかったような~~面白さ満載の作品「葉隙流光」。台湾に在住する作者が、さっとタイトルを中国語で発してくれたが再現できず、ただ葉の隙間から光が流れてくる……という意味は分かった。どの作品もよく分かり愛らしさを感じるとともに、作者の意匠の進化が随所に見られる。素材は木が中心、大理石の作品も。まず穴を開けることから、だんだんそれを螺旋形に展開し、裏(内)も見せ、鳥も植物と絡み合い、事実を超え空想を摂り入れつつ穏やかに進化していった……そんな面白さと親しみやすさが、両腕の触感に収まる質量感をもって造られてきた気がする。作者の言葉による解説も良く伝わって来た。
一方、村田さんの作品はスケールの大きさを感じさせる。画面、そして描かれた内容の双方においてである。はじめ「AIR-孕むひかり-」の前で、説明を受けたが、イタリアやフランス、スペイン…などの土を用い、それを裏に貼った画面に描き(それも水に溶けないのでビールで溶かし……)、さらにそれを表にして、そこからも描き~~と行程を説明され、こちらの頭が付いていけなくて困った(笑)。それはこの大作への印象というより、理知的に解釈しようとした此方の過去の悪い癖(実は若い時数学を学んでいた……)が久しぶりに露出し、作者の「創作過程」を理屈として引き出そうしたせいだったのだろう。とにかく作品に対峙すると、具象ではないにしろ、抽象からさらに植物的あるいは環境的というか、そこに蠢く命を捉えようとしていることが伝わってくる。
「AIR-陽だまり」はそれがさらに気泡の帯の繋がりのようなものに進化していく。そしてコラボ作品となる。芝田さんの作品を受け止めそれを生かしつつ、陽と光の様相を展開させている、そのさり気ない融和への気遣いの快さが伝わってくる。それから「AIR-纏う(タペストリー)」この作品は穴が開いたガーゼのような薄布が二重に貼られ、少し暗い空間でみたら幻想感がさらに湧いたかもしれないと思われた。「AIR-気溜まり」これも何かが湧いてくる感覚がある……気泡系の作品の展開し出した頃のものか。
そして奥の部屋へ。これは表から(ある意味ふつうに)描かれたという「湧き出ずるものA」「湧き出ものB」今年の作品だ。明るく力強く、そしてどこか伝統の味がある。興味を強く惹かれたのは木の支持体に描かれた「AIR2008」だ。十一枚の板を繋げ立て、角を丸くし中央に入り口のような穴が開き、上部から白い布が垂てくる……硬質にして右下の赤緑の美しい波紋と、天女が舞ったような白い衣装~~これは次なる大きな展開が期待され、かつ当館の元館長平松輝子さんの作品に繋がる感覚を禁じ得ない……と思いつつ次に、今回最も感銘を受けた大作「AIR-フツフツと湧き出ずるもの-」があった。今年描かれたこの作品は、過去の流れをベースに、白い気泡群が横広の菱形に纏まり、また気泡にかげろうのような翅が生え、天に昇っていく感覚をも齎している。思いが詰り、それが昇華されてゆく画面には感動を禁じえなった。
後は、最奥の壁には「AIR-揺れる」が流れるような面を見せ、「AIR-歪み」は、前年に描かれて、太く横たわる樹の根に、傷のような目のようなものが描かれ、「フツフツと……」に昇華される前の痛みのような感覚が伝わってくる。最後は、「AIR1」「AIR2」の裏から土の溶液を染み出させたもの。
幾つかの流れはあり、裏から染み出させた、半化学反応的作品群をベースに、そこに気泡群が生まれ、そして「AIR-フツフツと湧き出ずるもの」に行き着いたかのよう。それは陽を浴びて生きるあらゆる生命体に通じる、繊細でかつ触れ合うものへの配慮を損なわない、成熟した命の、控えめでありつつ壮大な〈賛歌〉ではないか。
コロナ後? に出逢えた出色の二人展であった。