「雲海の舟」坂口寛敏+柳井嗣雄 二人展

※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます



3月7日(木)~24日(日) 「雲海の舟」坂口寛敏+柳井嗣雄 二人展
会期中イベント 3/9 対談: 坂口 寛敏+柳井 嗣雄 司会 滋野佳美、3/16 徳田 ガン(舞踏)、3/23 小林 嵯峨(舞踏)
はじめに
二人の出会いは1985年、坂口寛敏氏のドイツ帰国展の会場だった。同時期に留学していた二人(坂口氏はミュンヘンに8年、柳井氏はパリに2年)はたちまち意気投合したという。坂口氏は1975年に芸大大学院修士油画を修了後、1976年からミュンヘンに居住し、ミュンヘン美術アカデミーに進み83年に卒業。坂口氏の活動は、絵画からインスタレーション、映像まで多岐にわたる。当館の平松輝子は1973年から10年間、ドイツ各地で活動していたから被る部分もある。平松は一方、パリでスタンリー・ヘイタ―師の元で版画を学ぶ柳井嗣雄氏とも縁があった。柳井氏は1977年に創形美術学校を卒業し帰国後、国立市に長く居住しながら制作を続け、今は飯能で和紙の作品やインスタレーションを手掛ける。両氏は田中泯が主宰する身体気象農場での1989年からの「白州・夏フェスティバル」に連続して参加した。今回の二人展は様々な意味でメモリアルなものとなった。
 雲海の舟
坂口氏と柳井氏の二人展の共通点はオブジェの舟があるところ。坂口氏は有明の海に板舟を浮かばせその航跡で絵を描き、柳井氏は、メタセコイアの紙で水には浮かばない舟を作った。
まず作品の簡単な説明。坂口氏の5枚の平面作品「スペース オブ パスカル」。その説明文はまさにヨゼフ ボイスを思わせるコンセプチュアルなもの。説明の言葉を羅列すると、無、時空、宇宙の膨張、創造空間、物質、熱エネルギー、流動、循環、何かが生まれる発生の場。ボイスは大学で自分の考え(コンセプト)を講義し、白いチョークで書かれた黒板はそのまま版画作品となったがそれを彷彿とさせる。
次に映像作品としては、大画面で投射されたパスカルの海シリーズ、「有明の海2023(8分)」「虹の松原2020(1分19秒)」「糸島2023 (3分46秒)」とモニター映像「時の循環 1989-2017(7分12秒)」。そしてオブジェ「板舟」。
坂口氏の故郷である福岡の糸島海岸と隣接する佐賀、唐津の虹の松原海岸には青松と白砂の海岸がある。氏はそのきれいな波打ち際で流木を手にして砂に絵を描く。「糸島」では先が二つの大きな流木を手にして大きなストロークでドローイングをする。当日海が荒れ大きな波が足元に打ち寄せるが器用なステップで水を避ける様はまるでダンスをしているかのよう。「虹の松原」は細くて長い流木を使うが、その分軽快でスピードがあり、シャッシャと小気味よく砂をはじく音がする。作者を中心に円を描く様子は頭に装着された動画カメラで映され、大画面で見ると画面がくるくる回り迫力がある。「有明海」は日本最大の干潟で満潮と干潮の潮位の差が数メートルあるが、今回、潮の引いた数時間の干潮時にムツゴロウの漁に使う板舟に片膝を置き、もう片足で柔らかい沼地と化した泥質堆積物を蹴って進んでいく。果てしないという言葉がふさわしい有明海のグレーの雲海のような平面に航跡がいつの間にかドローイングされていく。作者は、少しボイスを思わせる帽子をかぶり雲海を進む。その様子は上空からドローンで撮影されるが、そもそもこの作品は上空でしか見る事が出来ない。この航跡も水位ゼロであるので瞬く間に海水で満たされ次第に姿は消えてしまう。一方、その海の泥をよく見るとおびただしい穴があり、カニや飛び跳ねるハゼの仲間のムツゴロウが生きている場所だとわかる。ここは人間に関わらない多くの生物が生息している場でもある。本職のムツゴロウの漁師はこの板舟に載って毎日を過ごしている。人がこの大自然に囲まれながら生きることとはカニやムツゴロウと同じなのだろう。そしてその記憶は、泥まみれの板舟になり乾いてヒビだらけのオブジェとして置かれるインスタレーションとなり、映像は体を張ったパフォーマンスを記録した。
モニター作品「時の循環 循環・水・器1989-2017、 7分」は上記の白州・夏フェスティバルの野外美術展で制作された野外作品の28年間の記録。コンセプトは「工業生産物の自動車が山中で長い時間をかけて変容し、自然に戻るという循環」を表現。トラックの上部には蜘蛛の巣状のスパイラルに編まれたホースが設置され、車にはコケがつけられホースから水が供給される。23年ぶりの映像ではコケによって自然と一体化した車の姿が見られた。それは人と隔絶した空間と時間を経て自然と一体化した神聖な物体に変質していた。この作品の制作に参加していたのが、柳井嗣雄氏であった。
全体の印象は、ボイスの影響が色濃いということだ。それは当時留学していたドイツという土地とその時代性による。日本でさえボイスブームが起き、その空気は、同時代を過ごした私も理解できる。
私は単純に「大地に絵を描く男」という言葉が頭に浮かんだ。まさか作者はそんな変なキャッチコピーは容認しないだろうが。硬い地面に絵を描くのは困難。でも世界の中でも有明海であれば可能だった。例えばペルー、ナスカの地面に砂利で色分けした地上絵がある。今回は抽象画で、しかも描きたいものを描くという人間の本質的衝動をそこに見る事が出来る。そしてそれはドローンという最新技術を使ってできた最新の映像作品なのである。
柳井氏の作品は三つ。右側の「非在の壁(アバカ、2024)」奥の舟「古の岸辺(メタセコイア繊維、金網2020)」「記憶と情念(アバカ、サイザル、2024)」。アバカ、サイザルは麻の一種。
「非在の壁」長さ約7mのまっ赤に染められた麻の繊維が、約2mの空中に漂う壁となっている。それは向こう側が透けるような、透けないような微妙な密度の壁。それはまた下記の作者による「境界」を意味する。
「世界は境界に満ちている。国家、民族、文化、宗教のみならず、親子であれ、夫婦であれすべての関係に境界は存在する。そしてその存在を認識することによってのみ、我々は世界と自律した関係をとり結ぶことができるのだ。」
「記憶と情念」は「非在の壁」と繊維の編み方が違い揃っているのだが、それはより高く吊るされ、かつ真っ直ぐなため長い髪の人毛を想起させるためか、より不気味なものとなっている。二つの作品の赤は、ロシアによるウクライナ侵略、イスラエルによるガザ地区の大虐殺で流される血の色であり作者の強いメッセージとなっている。今回使われた麻は、神道では神聖なものとされている。
「古の岸辺」舟型に成型した金網に、生きている化石ともいわれるメタセコイアの繊維により作られた紙を付着させて形成された大きな舟。それは古代の舟のレプリカでもある。かつてこの大きさの舟で人々は大海原に漕ぎだしたのだろう。それは命を懸けた冒険だった。
柳井氏は海と陸との境界としての岸辺、あるいは此方と彼岸を結びつける精神的領域に興味を寄せる。世界を分離するもの、結合するものとは何かを問い続けている。
これらの作品は一見、かつてのモノ派的でもあるが、もちろんその時代のモノ派を再現するものではない。あえて言うならば、後期モノ派、ポストモノ派ということか。あるいは逆に進化論的に言えば、かつてのモノ派は空間芸術として今日のインスタレーションの初期段階ととらえることもできる。
次に今回、開かれた二つの舞踏のイベントについて。前述の白州・夏フェスティバルは、舞踏家の田中泯が主宰し多くのダンサーが参加したが、当初より参加した柳井氏は自分の展覧会と舞踏とのディオを企画し実施している。それらは、ダンサーとしては展覧会を舞台装置として、作家はイベントによりその展示が空間芸術と時間芸術の場となることの相乗効果を期待しているようである。今回は徳田ガン氏と小林嵯峨氏のパフォーマンスだった。これらの舞踏はこの二つの展示とマッチし、上記の目的を果たした。白州・夏フェスティバルは坂口氏、柳井氏により洗練されたものとなり時代的な発展をしたことを感じた。最終日、長年、柳井氏をフォローしている評論家の平井亮一氏が来られ、作家と歓談するひとときは貴重な時間となった。ご協力いただいた皆様に感謝したい。


坂口展示室会場

有明海

虹の松原

糸島

板舟

絵画展示

Space of Pascal 24-5」の部分

Space of Pascal 24-5」の部分

柳井展示室
右「非在の壁」

記憶と情念

「非在の壁」部分の部分

古の岸辺

「古の岸辺」部分



徳田ガン氏 舞踏



小林嵯峨氏 舞踏

小林嵯峨氏 舞踏

対談: 左より坂口、柳井、滋野各氏

左より柳井嗣雄、平松朝彦、坂口寛敏、潮田友子の各氏