※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます
アートフェスタ2023 9月17日~24日
出品予定者 相本 みちる、秋 ゆかり、雨倉 充、池亀 雅史、臼井 由美子、尾崎 悦子、賀川 明泉、
片山 憲二、加藤 あみな、唐沢 貴子、酒井 裕美子、坂根 桂子、ザキール サラム、瑞慶覧 かおり、
高橋 真理、田中 和子、田中 ヒデキ、田中 誠、津嶋 恭子、中里 紫泉、永田 典子、Mizzy蓮尾、
八覚 正大、ハチロ ユウジ、長谷川 博、原田 丕、原田 光代、日高 裕、平松 朝彦、瓶 史子
星野 研二、松本 隆一、望月 厚介、宙子、矢崎 治彦、矢野 理恵、和田 祐子
宇フォーラムアートフェスタ2023 宇フォーラム美術館館長 平松朝彦
今年も多くの方々にご参加いただき感謝します。新たな参加者も得て、皆、力作ぞろいであったが、一つの傾向としては立体、空間オブジェが増えて展覧会としてバリエーションが豊かで見ごたえ感があり好評だった。八覚氏は毎年インスタレーションと詩を出され、さらに司会と展覧会の評と大活躍だが、作品はもしかしたら、この中で一番現代美術的かもしれない。今回の評もおまかせして紹介させていただいた。
皆さまの平面の作品も詳細に面白い発見があった。全体写真ではわかりずらいため、一部、部分写真を追加した。本格的でありながら楽しい展覧会と総括したい。
写真については、枚数の関係で、全体写真と、それに写っていない写真、わかりにくい写真、ディテールについての写真を掲載した。
永田 典子、宙子、田中 和子、相本 みちる、星野 研二
平松 朝彦、秋 ゆかり、高橋 真理、酒井 裕美子
松本隆一、池亀雅史、原田 光代
瑞慶覧 かおり、原田 丕、片山 憲二
日高 裕、和田 祐子、望月 厚介
八覚 正大、坂根 桂子、ザキール サラム
中里 紫泉、(手前)矢野 理恵、Mizzy蓮尾、唐沢 貴子
田中 ヒデキ、尾崎 悦子、賀川 明泉、津嶋 恭子、田中 誠
全体写真以外の作品+アルファ
加藤 あみな
雨倉 充
長谷川 博
矢崎 治彦
平松 朝彦
瓶 史子
臼井 由美子
ハチロ ユウジ
高橋 真理
田中 和子
秋 ゆかり
星野研二
八覚 正大 部分
松本 隆一 部分
瓶 史子 部分
田中 ヒデキ 部分
矢崎 治彦 部分
池亀 雅史 部分
平松 朝彦 部分
永田 典子 部分
寄稿
宇フォーラムアートフェスタ2023に 詩人 八覚 正大
今年は、ようやくコロナが明け、でもまたぶり返している感もあり、それに七月以来の夏の暑さが続き、中々辛いものが有ったと……にも拘らず、例年にもまして作品の質が高いように感じられた。ただ、ギャラリートークなどで、多少作家の欠席もあり、コロナの影響、暑さ後の疲れ……などの影響が否めない感もあった。
従って、〈参加対話型芸術鑑賞〉は、何人かのアーティストとは行えたものの、館長、奥様などにお聴きしたり、資料、その他想像推測~による評も多少混じってしまったことをお許しいただきたい(でもそのせいか、関わってきたアーティストたちの過去の作品なども思い出され、喜ばしくも時間の掛かる感想批評になってしまった?)。ギャラリートークも作品の多さから、十分に語っては貰えなかった気もする……ともあれ、集い、空間とギャラリーの眼差しを共有できた連帯感は、貴重なものであったと思われる。
《1F》
・加藤 あみな 「夜のはじまり」、「ソラ」「suzu_mn」「suzu_zy」「suzu_nn」 淡い感じの水彩のような夜、空……でも色鉛筆で描かれたとか、情感が伝わってくる。Suzuは猫たちの顔、片目だけ開けた子、逆さ顔の子…真ん中のzyの横顔が、凛として好ましく感じられた。
・雨倉 充 「標」「燈」 前者の濃い青の真ん中に引かれたオレンジの線は見応えを感じさせる。特に線の真ん中から上へ輝くように……。ウクライナの戦いの膠着を突破して、貫き回復していく事を祈るかのような。前者は俯いた十数人の老若男女の姿を、一本の太いロウソクの光が燃え照らし、希望の祈りを醸しだすかのような作品。
・矢崎 治彦 「婦人像」「エッケンドニ共同住宅」 夫人像は何とも深い味わいのある凝縮された見事な年配の女性像。後者は、全方位に窓が開かれた大きな円形のゲルのような形の共同住宅、エッケンドニ村は五百数十人の住民ごと作者の頭の中に想像上の村として存在しているテーマ。最近、弟さんを亡くされたとのことだが、その遺品の中に二十年ほど前、譲ったこれらの作品を、今回出品されたとのこと。
長谷川 博 「遠くからの声」「手探りする風景」 青とオレンジその中の白い線。共に作家の独特な手法で描かれた、面を塗っていき線を残すという手法。見ていると何かの形が浮かびそうになり、すぐにまた抽象の中に溶けていく……。
・酒井 裕美子 「祝祭」「祝祭」「天使を運ぶ雲」「町は眠り星は歌う」「雲に隠れた月が」
今回もいつもと同じ場の壁に、五点が飾られている。どこか中世のヨーロッパの都市村落のような……でもそれは作者の内面に造られた物語。前回は、天使の梯子(雲間から差した光)だったのが、今回は天使は雲に運ばれて……真ん中の作品「町は眠り星は歌う」の、星が花のような光を開花させ、美しい。また今回もその額にも魅かれた。
・高橋 真理 「孔雀」「以心伝心」 馬の写真家、からイメージが一点、美しい孔雀のアップ、羽、そして顔が、描かれたようなタッチを感じさせる。一方後者は、立ち上がった馬と指示を出す調教師とのバランスの対比が見事。よく人という字は、支え合いーーと喩えられるが、どうして「馬人」の組み合わせもなかなか。
・秋 ゆかり 「認識の境界-OASIS」 青赤黒の…綺麗な色彩と感じられつつ、何で認識の境界? なのかと一瞬首を傾げる九枚のパネル。しかし、離れて見ると~現れ出て来た豹の顔、見る側に気づかせる発想が面白い。床にも小さなオブジェが並べられ、六角形の敷板に乗って光を当てられ影を作っている。
・平松 朝彦 「満洲の空」「空即是空1978」 前者は満州国に生れ、戦争で孤児となり、集められた収容所で亡くなった子どもたちの話を、化石(オーソセラス)のテーブルの上に配置し真ん中に青く塗られ白の混じった人型の頭部がそれをどこか俯瞰する構成。後者は、作者が二十代半ばで既に悟りを得て?
作っていた作品とか……。
・星野 研二「そよ風のいたづら」「こころの宇宙」「インスピラシオン」 初めの作品は、水彩のような感触。また朝顔の花と葉のような、抒情的な抽象作品。中の作品は、折れ線や円が描かれ色面が塗られている。最後の作品は、閉じた折れ線で色面が塗られ、作者の内面を投影したような、ちょっとクレーを連想させる画ではある。
・相本 みちる 「心のままに」「心のままに」「手遊び」 軍手を自在に用い、あらゆるものを造ってしまう、エネルギッシュで発想豊かなベテラン作家。最近は「糸楽展」で羅漢地蔵を出されていたり、以前は巨大な深海魚を作り展示されていた。いつ見てもその発想と制作意欲労力に驚かされる。今回二作は、手袋をも用いつつふんわりと丸く、かつ明るい暖色系の淡いトーンの作品である。最後の作品は六つの矩形の小品が二行×三列に配置されている。青赤オレンジ黄色……と色彩を楽しめるが、一つひとつに開かれた手の指が人の相を語っているような。
・田中 和子 「蝶」「紙風船」「瓢箪から」 この作家も、発想とその展開に惹かれるものがある。初めの作品は、蝶の鱗粉のように細かく切られた紙片が床にまで落ちている。また木箱の上には、ミニカーがあり何でも小学生のころ手に入れ、今でも動くとか。真ん中の作品は微小な三角面で塗り分けられ、中から確かに紙風船の形が見えて来る。最後の作品は、微小な四角の面に塗り分けられ、よく見るとこちらは瓢箪が。ちょっと理知的な面白さを感じさせる作品だ。
・宙子 「はなをもつれでい」 墨の作家である。今回は二十枚ほどのさまざまに墨で描かれた紙片をコラージュ的に並べた作品群。始めは上部に顔が見え、左方に水色の円が~くらいだったが、花を持つレディと分かって来ると急に作者の意匠が伝わって来た。確かに小粋な女性が花を持った抽象作品と感じられる。その下には作者が思いを込めた薄墨の小品が並べられていた。
・永田 典子 「空間-動体」 螺旋が渦巻く作品である。二作に分かれ、黒と青のもの。もう一つは赤、黄、青黒が主調のもの。どれも込められたエネルギーを感じたが、よく見ると人間の頭顔が沢山あるような気も…。
《2F》
原田 光代 「森の音」 長い経歴をもつ会員作家。最近は上野などでも大作を拝見した。今回の作品はどちらかと言えば小品だが、多色を混在させる作者のスタイルは一目で分かる、そして……あった、白い卵のような部分、そこに評者は命の輝きと新たな出発の可能性をいつも見出す。それが大小幾つか……お孫さんたちだろうか。
・池亀雅史 「sheng rong」「New story」 今回初出品の作家。シェン・ロンとは神龍のことだろうか、うねる龍がどこか人の好さそうな顔つき、ドラゴンボールにもつながっているのだろう。もう一作は黒いうねりがどこか新しい世界をつくるような~これもうねる龍のシルエットになっている。地球が掴まれ、さらにロケットまであるのが面白い。これからどんな龍形を見せて貰えるか、楽しみである。
・松本 隆一 「有り合わせで想う」「再考レリーフとコラージュ」「メモ帳の4頁」 今回もまた作者の意匠が楽しめた。飾らず意図せず、でもしたたかに意匠が組み込まれ、喚起されるものが湧いてくる。真ん中の作品は、既視感があり、その楽器の一部がオブジェとして前面に取り付けられ、背後のコラージュの四つの版を半分隠している。その形の不思議さと、隠されたものは何だろう~とおびき寄せられる。「メモ帳の4頁」は特に惹かれた。陶器の破片? きのこ? 小さな糸巻? ぶどう? のようなものが、ガラスで固められ、四つの象限の相として小窓に飾られた平面的オブジェ、素朴な感覚の中に、アートとして見る者を惹き付ける知的な軽妙さも感じさせられる。
・Zakir Salam「Entanglement-33A」 今回初参加のバングラデシュ出身の作家。日本に留学し、芸大の油彩画の修士を出られている。今回は怒れる馬が黄土色茶色系の空気の中を歩む半具象的作品。タイトルは訳せば「もつれ」…何を狙っているテーマなのか聞きそびれたが、馬に人間を投影したとみれば、人間の様々な思い・意図がもつれ合った現代を象徴させているのではないか。尾崎さんの作品にも通底する何かを感じた。またネットで作品をいくつか拝見すると赤や緑の鮮烈なタッチのものが……当美術館でかつて個展をされた菅沼稔さんの中期の頃の鮮烈な赤と緑の作品群を連想したりもした。今後の展開が楽しみである。
・坂根 桂子 「三半規管の暴走」「不確かな情景」 初参加の作家。肉体の目や耳が、その器官を奥から抉り出した感のある、力作である。単に器官のみでなく、それを繋ぐ人間の神経の、さらには精神のあり方や痛み……まで描き込んであるようだ。文学性を感じさせる画であり、そのテーマなどについて今後対話させて頂きたいとは思う。
・八覚 正大 「百均イレブン」 リサイクルショップに出逢い、そこに惹かれ、通い続けている良い歳のおっさんのコレクション~と言えば元も子もない(笑)。高くはない、ふつうでもない、貰った物でも、拾ったものでもない……「どん底」の百円にまで落とされジャンク品の汚名? を着せられたものの中から、これはアート! と感じられたものを集め、そしてできる限り日常で関り用い、それらの「価値」を再創出させたいーーというささやかな個人的野心の試み。
・望月 厚介 「熔融-相変化RB-40」 この美術館との関りは長い、シルクスリーンの版画家。かつては積層シリーズとして次々に重ね刷りをし、一見最後の色面に覆われたシンプルな作品と思っていた。それが何層にも渡り、禁欲的と言っても良いほどの作品づくりをされていたのだ。ところが五六年前? この熔融シリーズに変容し、下層から溢れるように埋められていたものが吹き出して来た。今回も赤が基調の作品。見慣れているとは感じつつ、その歴史を重ねた意匠は優れたものと感じられる。かつては毎回、肘や踵を写し撮りそれをシルクスクリーンにした、どこか対称性のある作品も出されていた。
・和田 祐子 「谺(こだま)」 一文字の墨絵である、響いて来るものがある。流れが見事で、その勢いから、「雄」の文字に読めそうな気もした。背景に七、八本の縦の棒がうっすらと見える……木々だと感じられた。
・日髙 裕 「HIDAKA WORLD」 この版画家も国立界隈では実によく活動されてきた。今回は、その版画の数々がコラージュされ、タペストリーのように天井から掛けられている。この美術館と出逢い、そして生まれた出色のアート。まさに日高ワールドと言える。目を凝らすと、様々な顔が見える。ギョロメ、お化け、魚、女、男、おっさん、アンチャン、ネコ、ネコ……二十数歳まで生きた猫、作者と連れ添ったその顔もある。そして何より頂上に、太陽がぬっと顔を出している(他にも半分太陽はある)。この構造、太陽に照らされてこの世は存在しているーーその事実を、アズテカ文明ならぬ、エーゲ海文明ならぬ、日高ワールドが、こうして呈示して見せた飾らない耀きは見事である。今回、八覚空想美術館の玄関に飾るとするなら、この作品かと勝手に感じられた。
・片山 憲二 「樹林239」 熟練の版画家の作品である。暗い鬱蒼とした感じの世界だが、茶色、緑、の中に白も赤もある……樹林は生きているのだ。さらに横から見ると、画面は凹凸し立体感さえ感じさせる、作者ならではの把握の仕方と感じ入った。
・原田 丕 「Landscape2023」 この美術館で多くの作品を出されてきた。そして初めて拝見した「大仁田」から今日まで、その作品には通底する〈凄み〉を感じさせられる。セピア色というよりは、〈血のり色〉と言った方が合うような、作家独特の色使い、そして桜の花びらが散ったようなものから、人間の臓器の深奥部を見せるようなもの、そして今回は縦の棒のような柱のようなものを血煙が流れていく……、かつて拝見した大きな個展のイメージが消えずこのような評になってしまうのだが、この画家の追究し続けているものの「奥深さと一貫性」には、ある種畏敬の念すら湧いてくる。
・瑞慶覧 かおり 「鯉の滝登り」「降琉」 この日本フレスコ画第一人者はまだ若い女性である。研究研鑽と、子育てと、さらに描き続ける意欲、それはやはり画を描くことの楽しみ、そして喜びから来ている気がする。今回も見事な鯉、そして龍になって降りて来る姿が、意欲ある作家の姿と、どこか重なるのだ。更にフレスコ画の持つ斬新な色彩を広め、まだ出逢っていないテーマと結ばれることを期待したい。今回は龍に関するテーマの作品も他に何点か集まった。
《2F奥》
・ハチロ ユウジ 「曜変」(上)「ときの膚」(下) CGで造られた上下二作、ともに青とオレンジの飛沫のような塗りが基調、上は有名な茶碗の模様からの連想、下はウクライナの国旗を模した……ということを直接お聞きした。
・津嶋 恭子 「無題」 かつて雨倉さんとの二人展、抽象の迫力を感じさせて頂いた画家。色は灰青色に周囲がオレンジ。キューブな矩形の線が画面を被うが、その中心へ向かっての盛り上げに苦労されたとのこと、そのエネルギーを感じさせる作品。
・田中 誠 「思想」 『糸楽展』で拝見したことのある、支柱に綿を巻き付けて造型された作品、たしかそれに針を刺していく時の感触が快い~というようなお話を聞いた気が。何かが生まれる、その祖形のようなものが感じられる立体作品。
・賀川 明泉 「光河」 抽象日本画。角の在る形をどこか追究している画家、真ん中に斜めに走る力強い太い帯が特徴、その上部には金箔が貼られ、見る角度で輝きが変わる。線のみならず、四角い小片や、飛沫も……日本伝統の工芸作品の表模様、尺定規……なども連想される。
・尾崎 悦子 「縞”Apocalypse”」 当館での個展はそのシマウマ群の乱舞奔走を思い出す。時代を写しその相を縞馬、その解体にまで展開されていた。今回は縞馬の縞を切り取り矩形に積み上げられた柱と、画面の中央に青い部分が描かれ、さらに、その中に赤い部分が……心臓を持った人間の形だろうか、それが縞馬の断片と融合を図ろうとするような……見応えある作品。
・田中 ヒデキ 「宙に円を引く」 この作家も『糸楽展』で拝見した。針金で形を作り、そこに仮面を被せたメビウスが浮んで来た……今回はそれが空中に吊るされ、作品は浮遊回転する~何よりその尻尾の部分が長い指の形になっていて、作品を回すとたしかに、宙に円を引くーー納得。面白い。
・唐沢 貴子 「共生」 今回初参加の作家、奥の壁に縦長の銀色の矩形が壁に掛けてある。目を凝らすと、その模様は思いの外、親しみやすい抽象模様で、植物に見えたり、流れに思えたり、人もいたり……特に左の作品は、銀の中に混ざる青緑がある種、時の推移を感じさせた。
・中里 紫泉 「雲龍」「旋律」「水廉」 会員展に長く貢献されてきた破墨画のベテラン。今回は小品三点だったが、どれも見応えを感じさせた。期せずして一点目は、龍。一閃、雲が龍に変身した瞬間。二点目は斜線から跳ね上がった円が軽やか。三点目は流れ落ちる水の相を見事に捉えている。作者、凛として健在である。
・Mizzy蓮尾 「Energy of soul」 『糸楽展』の中心的作家。そのイズムは命のエネルギーを見事に掴み、空中から螺旋的渦を巻きながら降りて来る。オブジェは黒い布、そこに口を開けたような部分の赤、斑点の赤が、命の発露を見せている。宇フォーラムのこの一角に、常設されても良いような存在感がある。
・瓶 史子 「紫の花のひそひそ話」 薄墨で描かれた縦長の大きな作品。叢のように描き込まれた中に、下部に確かに薄紫の花が寄り添い、語らい合っているかのよう。そこに寄り添い身を置けそうな作品。
・矢野 理恵 「ぬけがら」 『糸楽展』では空中を旋回するような見事なイボイボの果実を思い出す、たしかアジアの樹皮布に惹かれて創作されていたと。今回は紐を巻き付けて作られたという、一見控えめな、しかしよく見ると思いを込められた形が三つ、存在感を見せている。特に穴が幾つも顔を見せる部屋の入り口に近い作品は、今年けっこう枝から落ちてくるドングリの〈ぬけがら〉にも通じる感があり、後の二作は上に延びる蔓のような線が、失った実への追憶を残すような……。
・臼井 由美子 「シンフォニア・BWV795」 毎回、音楽とのつながりを表現されてきた作家。白い画面を切るように棒状のものが一つ中央に。上部は黒く、長い下部は白い。タイトルは J.S.バッハのピアノ曲、聴き直し解説も動画で……半音階下降バス、パルヘジア(誤った音程関係)等により、苦しみ、悲しみ、恐れなどを表現しているとか。すると、この画の棒のようなものは、ピアノの黒鍵と白鍵の一部を描かれたのかも……。
《百均イレブン》ーー貨幣価値体系の辺境にちょびっと触る
八覚 正大
今年の宇フォーラムのアートフェスタ(会員展)は
このようなタイトルで出品することにした
以前から百均ショップは知っていてけっこう利用してきた
思いの外便利でアイデアの詰まったものを感じてもいた
一方ラジカセの安いものを求めてハードオフに入って以来
その不思議な魅力に惹かれてきた……もちろん安い
しかしそれだけではないもの
様々な物の中から えっ、どうしてこれが!!
というようなアートな品を見つけ出すこと
もはや辿ることはできないにしろその来歴を想像すること
何よりあまりの安さにほくそ笑みつつ 持ち帰ってきた……
それを勝手に 〈三徳〉と名付けて楽しんでいた
さらに百円(正確には消費税がはいるので百十円なのだが)になった「ジャンク品」の中に
驚くような発想の湧くもの 運動器具として使っていける物
眺めていてなかなか飽きないもの……などを見出すに至り
今では一つの最低価格の感がある百円(かつては十円だった)と
物との関係をもう一度 百均ショップではない
使い古した物の方から見直してみたくなった
高価なものではない ふつうの値段でもない
でも廃棄されたゴミでもなく人間関係その他の柵でもらったものでもない
この資本主義商業主義社会の中で万人に認めれた「価格」を纏い
流通の流れの底で見返されることもないジャリ石のような存在
――ジャンク品
それが三徳を更に超え 私の中に価値や意味に対する
「存在の一形式」として正に浮上してきたのだ
☆百円という人間間の関係に埋め込まれた価値――それに挑戦する意味で
壊さなければ 触っても動かしても 使っても
つねっても叩いても……構いません
その時 一体何が喚起されるのかーー
これ等の物とご自分の感性との細やかな《関係実験》をしてみてください!