岩瀬 晶子 個展

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5月9日~5月26日     岩瀬 晶子 個展
 
作者コメント
「数年前、旅先で出会った不思議なチェスの駒。その駒に導かれるまま、アフリカの彫刻、中南米の土偶との出会い。色と形が動いていく。遊んでいるように、泳いでいるように。流れ着いた先に何が見えるのか。今日もそれを探している。そして明日も」 

・岩瀬晶子展について              宇フォーラム美術館 館長 平松 朝彦

岩瀬氏のF100号の作品が15点並ぶ今回の個展は、作品のインパクトが強く反響が多かった。抽象のような具象のような、抽象表現主義なのか新表現主義なのかは定かではないが、動物園でスケッチしたりすることも多いという作者のお話から野生動物のイメージもありそうで文字通り野獣派だ。新表現主義はかつての暴力的、野獣派のフォービズムを起源とし、アメリカでは抽象表現主義となるが反動的に再び具象化しニューペインティングが生まれ、その名称はともかく今なお世界的には主流といえるようだ。
さらに作者はフランシス・ベーコンが好きだというが、これらの作品の本質はもしかしたら「不気味」系なのか。いくつかのシリーズはあるが、いずれも動的でエモーショナルな筆致、というより刷毛さばきは共通で力強く大胆で小気味が良い。
その中で私がひときわ特徴的と思うのが、背景が黒の、まるで廃寺の暗闇にたたずむ黒くいぶされた古い仏像のようにも見える不気味な作品(Scherzo A)。それらは作者のいう様々な造形物との出会いで生まれたようだ。飛び出た物体が手だとすると手が半分取れてしまった阿修羅像か千手観音か。スクラッチで描かれた金色にみえる不規則な細い線。大胆な筆遣いときわめて細いラインを同時に使った作品で他に脳裏に思い浮かぶものはあまりないが、たとえば雪舟の四季花鳥図や坂田一男の作品にも一部に烏口で描いたような硬質の細線が用いられ画面にリズムをつくる。思えば両者とも岡山だ。さらには大きく羽を広げた鳥、あるいはギリシャ彫刻のサマトラケのニケ像を思わせるイメージの作品(Scherzo B、C)には躍動感がある。
自由奔放な作品のイメージとかけ離れて岩瀬氏の話し方はていねいで礼儀正しく、意外性がある。その格差に皆がファンになってしまうのかもしれない。その一人が今回来館された東京藝術大学美術館初代館長の歌田眞介氏で作者は教え子である。彼女は高校時代、すいどーばた美術学院でデッサンの課題を歌田氏が指導されたという。歌田氏は油絵技法研究の第一人者。
話は遡るが岩瀬氏を紹介頂いたのは広島県福山市の画家、開原通人氏であった。地方の力のある作家は様々な公募展を発表の場としているが、それに物足りない思いをしている力のある地方の画家もたくさんいる事を感じた。
アフリカのマスクに魅了されている岩瀬氏は、最終日に数多くのアフリカのアートコレクションを所蔵されている八覚サロンを訪問し、思いを新たにされたようだ。最後に寄稿頂いた、かしまかずお氏、八覚正大氏、他皆様のご協力に感謝したい。


<寄稿>       岩瀬晶子の絵画表現について     美術評論家  かしまかずお

岩瀬晶子の抽象絵画は大変力強く、画面の有機的形象の動きに勢いがある。今展で見せた、最近数年間の作品を観た率直な印象である。現代は、抽象絵画が振るわない具象絵画隆盛の時代だ。主に’80年代以降のアメリカの絵画シーンが具象絵画に変化した影響が続いている。心象具象絵画も流行る。だが、岩瀬の抽象絵画は表現主義的な強さを持つ。
宇フォーラム美術館の個展では、四つの主題(さすらい人・無言・原始・scherzo)の元、それぞれ作品を展示している。さらに岩瀬はこの個展に際し、予め画集を作成しており、展示しきれなかった作品は画集で見ることができた。そして展示箇所の片隅に、小さな掲示を行った。そこに岩瀬は、「アフリカの彫刻」「中南米の土偶との出会い」によって絵画の「色と形が動いていく」と、自らの制作衝動について書いている。
まず、作品「さすらい人」についてである。定住地を持たない「風」のように流離う人でなく、絵画はその真逆に在る自我の世界だ。岩瀬の「さすらい」は作家胸中に去来する精神的な事象なのだ。歩く人の後姿と思われる形象がなくはない。だが、主題の意味が精神的な真実のさすらいであれば、作品はむしろ作家時々の自画像とみるべきである。
人間は複数のペルソナ(イタリア語で仮面を意味する)を持つ。作品の表情は一つの顔、複雑怪奇な人間の精神を多角的に描き出した像なのである。次に、作品「無言」である。主題は、当然ながらUntitledではない。作家は絵画表現について考慮した。絵画の表層から発せられるのは、色彩と形態等による絵画言語であるということを。日常性において、時に「沈黙は金なり」であれば、敢えて無言であることの重みは理解できよう。画面からは、不満や不服を示唆する強い言語が発せられている。次に、作品「原始」である。
画面中央にあたかも象の巨体のような、シンプルで大きな形態を描く。画面の奥底には、うごめくような曖昧な絵具の痕跡が見えるが、強い形態を、画面全体を如何に制御してのかが課題と思われたが、挑戦的である。最後に作品「scherzo」についてである。
主題は音楽曲にモチーフを借りて、スケルツォ(第3楽章)と呼ぶようなスピード感のある筆触と、飛翔感のある画面を創出している。作品の中には、慌てて動き出すかのような、楽曲でいうとフィナーレの前段に展開される、ドタバタ感のある愉快な形態も描いていて、実に多様なscherzoとなっている。
 岩瀬作品に共通の、画面の強さは形態の他、表層のグレーズにメリハリが効いているところから生まれて来るものと思う。岩瀬は、絵具の塊を表層に布置しない。岩瀬の絵画は絵具のボリュームに依存せず、塗り重ねることによる構築性を重視するのである。表層に立ち上がっていく絵の具のナラティヴ(物語)を紡ぎ出せる作家なのである。
 私は、岩瀬晶子の抽象絵画作品を、宇フォーラム美術館で初めて観た。力強い作品の「霊感元」は冒頭に触れた「彫刻」や「土偶」のプリミティヴの力強さであろう。今後の作品がどのように推移していくか予測不能であるが、その展開を大いに期待したい。 
 2024年5月12日                      


岩瀬晶子展             ーその塊に接してー         八覚 正大

「Scherzo」(スケルツォ)5作、「無言」2作、「さすらい人」6作、「原始」1作、というタイトルがなぜ「原始」を除くと複数付けられ、それぞれどんな意味を持つのか知りたくなった。作者は、とある場所にあった木彫りのチェスの駒に魅せられ(そこからアートの旅が始まったような)、それから岡山中南米美術館にあった土偶やアフリカのアートに惹かれ、また福山市立の動物園の動物たちに魅了されという話をされたのだが……。
ところで筆者は、特に今回の展覧会場である宇フォーラム美術館を中心に、アーティストたちと対話しながら鑑賞する《対話参加型芸術鑑賞》という行為を数多させて貰って来た。それは、アーティストとその作品を前に語り合いながら鑑賞する、ちょっと贅沢な試みである。それによって、何より此方の「心的色眼鏡」が外れ、或いは溶け、目前の作品に改めて〈触れる〉ことができ、言葉による対話が、如何に〈ものを見る〉上で大切な事かを数多体験してきたと言える。
そんなわけで、今回も作者と対話させて頂いたわけだが、二回目の時、作者は、「それぞれのタイトルは自分の中にある思いの塊のようなもので、それぞれの塊から出たものを、同じタイトルに込めた」と語られた。その瞬間、何かが投げ渡され、此方の目が開き直した、そう正直に告白して措く。
「Scherzo」(スケルツォ)の五点は、冗談、いたずらというような意味であり、必ずしも明るく、奔放な~という感じではないにしろ、白、灰色の塊が力量感をもって画面に躍っている感がある。
「無言」はそれに比して、黒の塊から何かが重く苦しく滲み出てくる感がある。この重さの感覚はどこから来るのだろう、作者固有のものなのか、あるいはコロナ、さらにウクライナ戦争を経て来た我々の時代を反映しているのだろうか。恐らく、その両方なのだと思われる。作者は、ふとあるものに惹かれ、それをきっかけに、関り動き出し……そして力強い表現に至っていく、そんな流れではなかろうか。
「さすらい人」は今回の中で六点、その塊から出てきたものだ。それらは動きがあり、黒白に赤が混ざり、力動感がある。作品としてもこの塊に、こちらが動かされるものを感じた。特に入って右壁にあった二作(A、B)は、勢い、流動感、配色、喚起力において優れた作品と思われる。また、左壁奥の作品の青の基調に黄色も混じった作品、それもまた、同じ様な意味で優れた喚起力が感じられた。
さて、最後になったが、正面奥の「原始」である。これは動きもなく、正に黒い塊のように見えていた。少し歪んだ四角く大きな塊、それに細い線、太い線の二本がそれを支えるように下に伸びている……。対話の中で、それが牛の背中(尻)であり、その印象を描かれたのだと伝わった、その瞬間、黒の中に赤い色が混ざっているのが見え始めたのだ。その黒は毛並みであり、その下には皮膚があり、さらに血が流れているのだと。隣の類似した形の作品には、黒が薄くなり動きが出ている……そちらは「さすらい人」とタイトルが付けられている。牛が命あるものとして〈動き出した〉のだ。ようやく、タイトルに分類された「塊」の正体が見え伝わって来たように思えた。
そして改めて思う、この作者の作品群は、言葉での説明は実はきっかけ・入り口であり、作者の心的力動感に触れ得るには、作品を直に見てそのインパクトを感じることだと。かなりの力量を内に秘めた画家であると振り返りながら思い感じた。






(作品名のアルファベットは便宜上筆者がつけた)

Scherzo A (2021)

Scherzo B (2022)

Scherzo C (2023)

Scherzo D (2023)

Scherzo E

原始(2021)

さすらい人A (2021)

さすらい人 B (2021)

無言 (2020)