小林 ナオコ 個展

※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます

 

5月9日~5月26日     小林 ナオコ 個展 -森のそばで夜を待つ- 
作者コメント         
「2020年、青梅市の大荷田という森の中の集落で野外展をした時、畑の土で泥団子を作り茶碗に入れて展示した。朝になると、毎日、茶碗があちこちに転がっていて、泥団子には動物の爪痕がたくさん残っていた。2023年、香川の山の中の野外展で、泥を入れた箱を作ったら、泥の上に動物の足跡が残っていた。2024年、宇フォーラム美術館で何かが起こるのを静かに待っている地表を作ってみた。」

・小林ナオコ展について         宇フォーラム美術館 館長 平松朝彦

造形作家の小林ナオコ氏はかつて当館で、暗闇の中で塩水が大きな光り輝く結晶となるプロセスの印象的な展覧会を開かれた。最近は青梅の「東京里山野外アート大荷田」にも参加されていて、並木邸の庭先というか畑というか野原が会場だった。その並木邸は、里山といってもほとんど森の中で「ポツンと一軒家」状態であり、夜の帳がおりる10時も過ぎれば周りに猪や鹿が現れるのは不思議ではない。今回はその場所を美術館で再現する試みでもある。
黒土を入れた様々な形の自作の木製の器を展覧会場の床に敷きこむことで人工地面化しながら野原を再現する。それは人工的なものと自然との対比でもある。かつて大荷田展では茶碗に土を入れたりしたが、今回の会場の床には幕内弁当の器のようでもある200個もの様々な四角い形の器が並べられ、中には数日前に作者によりペースト状にされた黒土が箱に詰められた。展示すると同時に乾燥が進み、ヒビだらけになり、それはまた自然の造形作品のように見える。それらは会場の床に敷き詰められ、天井から吊り下げられた二つのライトで暗く静かに照らされる。
一方、現地に設置した定点ビデオカメラは動物の動きに反応し30秒の動画が自動で撮られる仕組みで一週間設置され、7分の動画が撮れた。その映像はまさに野生動物である猪や鹿が徘徊する真夜中の森の光景であり、暗闇の中でまるでLEDのランプのように目を光らせて動き回る動物の生態が捕えられた。作物を荒らす猪や鹿だが、彼らにとって人間の迷惑など関係ない。これらは人間の論理は通じない動物のパフォーマンスアート。床に配置された人工地盤と、夜間に撮影した現地のビデオ映像をプロジェクターにより壁面に投影した組み合わせに多くの人が興味深く見入っていた。床には人間が歩く事が出来る獣道があり、最近はやりの没入型アートとしても楽しめる。
一方、偶然だが、その数日前に当館の庭に、ほとんど実物大の猪の石像が設置された。八覚正大氏が路上観察中に発見したもの(メッケラート)で、建物撤去とともに処分される予定だったものが管理者の了承を得て急遽当館の展示物となった。この猪像はかなり古い物でサインはないものの彫刻家によるものと推測され、いわくも謎だらけだが、まるで今回のビデオに登場する猪のように思えてしまう。(写真は鼻先など一部補修中)
ご寄稿頂いた、かしまかずお氏と八覚正大氏に感謝します。



<寄稿>  小林ナオコ作品「森のそばで夜を待つ」について  美術評論家 かしまかずお

インスタレーション展示「森のそばで夜を待つ」は、様々な気付きとともに太古の記憶をも喚起させる。報道ではよく、里山荒廃の背景は耕作放棄地増大だという。経済至上主義の現代、急速に進展する少子高齢化の中で、国の食糧安全保障に直結するにも拘らず営農の継続は極めて困難だという。野生動物と人との関係はまず深刻被害への対応として捕獲駆除があり、爆竹等による山への駆逐や、侵入防止用電流柵の敷設などが行われている現状だ。「共生」も「棲み分け」も難しい。一方「野生動物保護」の主張を、農業被害等を無視する都会人のエゴとする反論がある。この根は同じ、雑草駆除の論理である。
作家は、東京郊外青梅市の「大荷田」で撮影したという。壁の巨大スクリーンに、深夜に撮影した野生動物の生態が投影される。色彩のないモノトーンの映像だ。実際、映像には初め闇に光る何かが写り、カメラに近づいてくると猪の眼球とわかる。何のために真夜中の森を「さまよって」いるのか。彼らはやって来て、通り過ぎ去っていく。美術館の約半分の空間を使った小林のインスタレーション展示は、野生の空間と繋がっている。
何処の里山であれ、その森と市街地の空気は同質でないことを私たちは常識としては知っている。だが小林のインスタレーション展示を観て、単純な事実に気付く。両方の空間に流れる時間となれば、棲息する森の野生動物と人の日常とは異次元にある。その異空間を惹起したのは、生物の生態を記録した野生動物観察用定点カメラの目である。
一方、この美術館の床いっぱいに敷設した大小かつ多数の木箱に詰めた黒土が床上狭しと、見た目にはランダムに並べられている。しかし作家は繊細で、床に鑑賞者が歩けるだけの(獣道)を空けていて、森を擬した「木箱の土の森」に踏み込み、分け入ることができる。更に小林は木箱の土の置物に、野生の足跡・痕跡「らしさ」を造らなかった。土は既に乾燥が進行中だが、そこに鑑賞者が想像力を働かす「遊び」が仕掛けられている。
さて深夜多くの人間は昏睡状態にある。猪は深夜に食事をするのだろう。暖かく明るい時間帯には森の眠りを貪っているのかもしれない。私たちは彼らの生態、森の中に流れる「もう一つの時間」をよく知らない。むしろ知る必要のない「時間」と思うのだ。古代人は食料や衣類、武器や装飾品にもなる野生獣をよく知っていた。狩猟採集を専らとする縄文時代の人々にとっては日々食べること、生存自体が主要な問題だった。「火」を保有していても、人間の活動は月や太陽、星と共に体内時計に大きく依存してはずである。
小林のインスタレーションはそんな太古の記憶をも喚起した。文明の利器・時計に従い動く現代人の時間と、独自の体内時計で動く獣たちとは対極にある。科学技術が進展し、AIの暴走が懸念される現代。彼等を害獣と呼びながら人間の生活圏を守っている私達。
小林作品の成功はまず、視覚に強く訴求することがある。感情移入されない定点観測映像が奏功した。更に野生の痕跡を施さない木箱の土の配置も面白い。照明を落とした空間の中で鑑賞者は空間の美を感じながら、「自然と共生」について改めて考える。そんな小林ナオコの展示である。 
2024年5月12日                        


小林ナオコ展   ―森のそばで夜を待つー     美術評論家 八覚 正大

 以前、この美術館で、インスタレーションを拝見したことがあった。二階第一室で、確かテーブルを四角く並べ、その上にタバコの包装紙のようなパラフィンの透明で四角い容器が何十も並ぶ。それに伊豆諸島の海水を入れ、蒸発の度合いによって生まれ出るそれぞれの変化を楽しむ……そんなインスタレーション作品だったと。
 今回は、青梅の大荷田でカメラを設置し、夜出て来る動物を撮影するという試みと、二階奥の部屋に大小長短取り混ぜた計二百個の箱を並べ、その中のひび割れた土の形を見るというもの。
 後者から述べると、かつて大荷田で茶碗に入れた泥団子を並べ展示したら、翌日茶碗は転がされ動物たちの痕跡が残っていたと。また香川の山中で泥を入れた箱を作ったら、そこに足跡が点いたり……そんな経験から、〈何かが起こるのを待っている地表を作ってみた〉と。箱には動物たちの痕跡(足跡)を捉えようとする意図があったようだ。ただ今回は、発砲スチロールの上に黒土を置いたものに留まったと。計二百個もランダムに並んだそれらを椅子に座って眺めていると、宇フォーラム湾に大小長短の舟が、勝手な向きに集結し湾内を埋めているかのような気が……船は縁が白いものと赤く塗られたもの……なにか壇ノ浦の源平の~~と。連想妄想はそのくらいにして、やはり土のひび割れ方がみな違い、それらは人為の中の、自然現象として面白かった。かつての海水を蒸発させたインスタレーションに繋がるように感じられた。
 一方、大荷田の夜中の撮影フィルムについては幾つかの印象を述べれば、まずは猪の出現。これはなんだ?!~とばかりカメラに近づき、それからお尻を擦りつけマーキング? のような行為に及んでいる。擦りつけるシャリシャリ、シャリシャリ……という擦過音が、ノコギリで木を切るような、何とも臨場感を齎してきた。また、シカも出て来てその目がカメラの赤外線に当たり、光って見える…そんな映像をかつて見たことはあったにせよ、生々しさを感じさせた。
 作者と並んで木の長いすに腰掛け、その映像を観つつ色々対話させて頂いたのだが、野生の動物たちは生きるために必死で動き回るのに比し、人間は芸術という、生存のためにではない創作行為をする、その贅沢さや、でも人間に生れたからこそ、こうやって楽しめ、好奇心を満たされるのだ……そんな感懐も筆者の中に生れては消えた。対話の終り頃、並んでいた作者と目が合った。その瞬間、さきほどの猪、そしてシカの目の光をパッと連想したが、それは自らの好奇心によって突き動かされるアーティストの本能に近い主体性を物語るように、きらきら輝いていた。
「これからどんな方向に活動を展開されるのですか?」との質問には、「いくつかやって来たので、これで少し休んでまたゆっくり何をやりたいか考えます」と。
 エネルギッシュなインスレターション、パフォーマンス……は個の主体的意匠をこの世にオリジナルに表現する、純粋かつ創造的なものだと思う。しかし、その質のみならず、量を行為する負担、そのために使われる時間、お金……など、表現行為の背景にも思いが行った。今年二十五周年を迎える宇フォーラム美術館、その空間の維持の労力も並々ならぬものが……とも。
今回、某所の更地化で廃棄されようとしていた猪像を、寄贈してもらい美術館の前庭に設置させることができたが、カメラにお尻を擦りつけて来たこの映像の「彼」と、その数十年は雨ざらしになっていたと思われる石の彫刻とが、何かの縁で繋がっているようにも感じられた。

パノラマによる会場写真

目を光らせた
鹿の映像

目を光らせた
猪の映像

動物の足跡

木の箱とひび割れた土