園城寺建治 個展 Kenji ONJOJI

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園城寺建治 個展 Kenji ONJOJI 
作者コメント  「もう長い間「時間」をテ−マに作品を制作している。時間が人間に認識されるようになったのは、いつなのだろう。火を使えるようになった時か、言葉を操れるようになった時か。物理学的、歴史学的、宗教学的、文学的、な時間。有形無形あらゆるものの存在に、初めと終わりという時間がある。この地球もまた」
① 「時のレクイエム」300 x 700 x 90 cm  1点 
②「有時 − 」 墨、銅版画、グァッシュ、チョ−ク、他 112 x 82cm 13点 m
③ オブジェ  6点
・展覧会に          宇フォーラム美術館 館長 平松朝彦
今回の園城寺氏の作品は三種類である。テーマは「有時一」と「時のレクイエム」。
「有時一」は約112×82cmの大きい13枚の版画作品。「時のレクイエム」なる高さ3m、幅7.5mという巨大な840枚の鉛筆デッサン群の集合体。そして会場の床の長い紙の上に置かれた6つのオブジェ。
「有時一」とは禅の言葉。有は存在のことで時間と存在は一つだとしている。その作品の共通点は中央に黒い物体らしきものがあり、それはまさに存在を表している。作者は1970年代にフランスのヘイタ―教授の元で版画学んだ。現在の技法は銅版画に若干加筆という手法であるが一見して版画のようには見えない。まず、明確な構図、形があり背景はぼかしてある。その版画は書のドローイングの世界にも通じるものがある。さらにその特徴は中央のシルエット的な形と光にあふれた空間の対比。シルエットということは手前には物体があり向こうに光があるという事で、影ではなく陰ということ。その黒はすべての光を吸収してしまうかのように漆黒だ。さらにその背景は単純な白、余白ではなく墨によるグラデーションがある。ぼかしは水墨画のようでもあり、日本的なイメージがある。
次に高さ3m、幅7.5mの「時のレクイエム」なる大作は、幅75×100cmの紙を縦に3枚、横に10枚つなげたもの。数えると約15×10cmのデッサン帖は計840枚。2011年、東日本大震災を機に始めた「絵描きだったらすべき」と始めたデッサンのテーマは身の回りの植物と人間。公園でのデッサンもあれば図鑑からの写生もあるという。面白いものは住まいの近くで出会ったというニホンカモシカ。さらになぜか二枚の裸婦もある。いずれも手慣れたデッサンだ。ところで、「絵描きだったら」という作者の言葉が頭に残った。室町時代、雪舟は中国から中国人画家らの樹木のデッサンのある「画帖」を持ち帰ったが、彼らは山水図などを描くとき、その画帖の植物を参考に、画面にそれらを自由にコラージュするように描いていくようだ。雪舟や狩野派はその方式をまねて画帖をつくりいろいろな絵を描いた。つまり当時、絵とは現地で景色を写生して描く、ということではなく画帖を元にコラージュを駆使した仮想現実の世界ということでもある。画帖には画家の画法のエッセンスが詰まっている。「絵描きだったら」それを持っていなくてはならないことになる。その集合体が今回の一つの巨大な作品となっている。そして840日は「時のレクイエム」として描かれた。それらは「有時一」であり二度と再生できないかけがえのない記録である。
 次に立体オブジェである。作者はこうした作品を、銀座のギャルリー志門でも平面作品と組み合わせて発表されていたので見覚えはあった。「有時一」の平面作品がシルエット風であれば、これらの作品は逆に影が立体化したような不思議な感覚。なにより形が明確で、それが黒であることにより、物は形だけの抽象となっている。全体にモノクロで静謐なたたずまいは平面作品と同じ。さらにそれらの作品の下には、モノクロの美しいグラデーションの紙が敷かれていて、これもまた平面作品と同じ方法である。立体と平面の世界を自由に作りだす園城寺ワールドとなっている。美術史的にはこうした試みの原点はキュビズム(立体派)にあるのではないだろうか。

・寄稿/ 大平奨の「発見された時間」と園城寺建治の「有時」について
(2024年7月18日~8月4日:宇フォーラム美術館)    かしまかずお
大平奨展並びに園城寺建治展が、宇フォーラム美術館(国立市)の中で、同時開催中である。
二つの個展に通底する観念は「時間」である。とは言え、把握の仕方は全く異なる。物理学上、時空を超えて自在に移動するためには、光を超える超速度の移動が必要になるとの理論的整理はされている。だが現実、四次元世界に生きる我々は一度きりの生を「不可逆的時間」の中で終える。
人の命を時間に置き換えると「命とは、私が使える時間の総量」になる。それは、時間を機会費用と捉える場合の(経済学的な)「可処分時間」でない。有限の生命を朝露のように儚いとみるか十分長いとみるか。そこは神ならぬ個人の観念である。今回の両個展は個々の生き方を想起させる。
大平奨は、1988年制作の超大作「碧落よりー風の記憶」の他、新作「景KEI」は、①二つの箱の時空が反転して交差する世界「時の落し物」シリーズ。また、②一枚の写真の朦朧映像と鮮明映像との合体による「見出された時」、更に③表層に舞う無数の色リングが表す多様な想念の奥にぼやける時間を捉えた作品「景」等、である。一方、園城寺建治はインスタレーション作品「時のレクイエム2011」の他、ドライポイント版画プラス墨による表現である一連の作品「有時一」を展示した。
まず、大平奨の作品の主題「景KEI」の表現の形態は、多様である。しかし、作家は一般的な風景landscapeを描くのではない。作品において、大平の時空感覚にピタリと擦り着いた「景KEI」は、今現在を生きる「私という存在証明」なのだ。その概念は多様で、時の経過であり、記憶の蘇りであり、或いは過去と現在を交差して立ち現れる現在の時空である。同時にそれは大平奨の「特異な視覚」に収斂されている。大平奨は、このような時空感覚を念頭に、現在の「景」を創出するのである。
 従って大平の造形には、想像の町コンブレー(M.プルースト)の「無意識的記憶」は存在せず、神話が一日の出来事に置換されたダブリンの街(J.ジョイス)の想念の流れも存在しない。大平の手元には明確な事物・存在するモノが厳としてあり、過ぎた時間に私が存在したはずの証拠写真がある。明確な事物や証拠写真を媒介して時を遡行することで、大平の過去のその時は一層鮮明に捉えられ、過去と現在の交錯空間(交差領域)において、意識は「今化」されるのである。透明接着剤(「ゴリラ」と聞いた)で固められた過去写真の中に、作家大平奨の意識外に眠っていた時間が再発見されたのである。
一方、園城寺の作品「有時一」は、主題を曹洞宗開祖(越前永平寺)道元の「正法眼蔵有時」から取っている。作品の背景は曹洞禅における「存在と時間」である。有時(ウジ)は「有」と「時」ではなく、「有時」一体である。道元は、不可逆的にはたらく時の流れを薪と灰のたとえをもって示し、これを不生不滅の理として教えたと言われる。そこで「発心」と「修行」が重要であり、自己とは生かされている自己であり不生不滅の「時」の事実としての存在である。園城寺絵画は、「時間の経過」と共に「いま生きている私という身体を有する存在」とは何か、という問いを鑑賞者に発している。
作品の黒い矩形が構築的に立ち上がっていく形象に、手描きの線形等を加えていく行為の中に、絵画における園城寺自身の「発心」と「修行」が具体化する。作品は作家から離れた過去の時間となる。だが、園城寺の不生不滅の「存在と時間」は十万億土の宇宙において、死後の世界に繋がっている。園城寺の作品もまた、道元の薪と灰のたとえが語るとおり、不生不滅なのであろう。この理解が核である。
結びに、思考の方式(諸賢哲の理論に精通することでない)について思考する学問は「哲学」である。大平奨は独自の哲学を持つ時空の「探究者」である。園城寺建治は、道元に主題を借りつつも曹洞禅に帰依する考えはなかろう。自分の振幅と同期する有時に霊感源を得た造形なのである。本展の成果を踏まえた二人の作家の今後の飛躍を、大いに期待したい。 2024年8月4日     美術評論家
(注: この寄稿は同時に行われた大平奨個展の批評を兼ねている。)


正面「有時一」
右「時のレクイエム」


「時のレクイエム」
(2011)

「時のレクイエム」部分(2011)







有時一







オブジェ1

オブジェ2

オブジェ3

オブジェ4