橋本 俊宣展

※ 展覧会の様子がパノラマでご覧になれます



● 11月13日(木)~30日(日) 「橋本 俊宣展」 
・橋本 俊宣 コメント 
「ある日から飲み残しの珈琲を貯めそれを顔料にして書きはじめ45年ほどたちますが、今は日本画の顔料など他の材料に珈琲を加え制作しています。生まれは釧路湿原。森などなく、深い森には、あこがれ、威厳、想像、イメージが無限に広がっています。今は青梅の自然、草花虫たちが私の制作の糧になっています。」
寄稿 ・橋本 俊宣展 「超絶技巧の世界」            平松朝彦
橋本俊宣展のポスターは「超絶技巧の世界」としたが「圧倒的画力」も追記したい。
今回の展覧会の作品は、1、蝶、昆虫などの絵画、2、エッチング版画から派生した絵画、3、美人画、4、マチエールにこだわった絵画の四つに分けられる。前者の3つは、具象的なものがテーマであるが、細密な部分はダリのようなシュールリアリズムでもある。蝶、昆虫などが画面に散らばった作品群は、そもそも釧路湿原の自然の体験が大きいと思われるが、さらに、多摩の自然豊かな地で、そうした生き物を身近に感じることのできる生活環境もその一因だろう。まずは伊藤若冲の動植綵絵を連想した。相国寺に寄進したそれらの絵画は、毛虫や昆虫、蛙、蝶らの自由に生きる自然世界は人間だけのものではなく、すべての生き物の世界であるという当時の仏教的な世界観を表す。それは単なるデッサンでも挿絵でもない宗教画。 しかしよく見ると違和感がある。若冲と異なり、そこに描かれている生き物は死骸のように見える。しかしそれは命の別の表現だ。死者に対する日本人の慈しみ、憐れみの心。それは若冲を超えた世界でもある。
一方、版画にもみられるその不気味さは、ベルギーの画家、ヒエロニムス・ボスの魔界的世界を思わせるのだが。技法的に、この細密画は、どのように生まれたのか。美術の学校を出て就職した大手の出版社で挿絵を描いたという職人的経歴は、この絵につながったのだろう。しかしその細密さはやはり尋常ではない。
次にその絵の材料が独特である。コーヒーを使っていることも特殊だが、背景は筆で描くのではなく流しているため、無限のグラデーションが生まれ、さらにきわめて巧妙な水のぼかしによって透明感すら漂う。そうした独特の背景に前述の生物たちがコラージュのようにちりばめられ、それらの細密画をさらにひきたてる。
その素材のコーヒーについて補足すると、作者は無類の濃いコーヒー好きで、冷えてしまった残留物をためて絵の具としたという。ふと身近にあったため思いついたというが、コーヒーは煮沸することにより雑菌がなくなりカビも生えない。さらにコーヒーの出し殻も利用するという。コーヒーは絵の具と浸透性が違うの、絵の具では再現できない何かがあるように思われる。さらに緑色などは、岩絵の具を混ぜたという。このように独特の色合いには秘密があった。
次にエッチング版画と絵画の融合した横長のシリーズだが、福島の原発事故をテーマとした豚や牛などの具体物と、幾何学的な抽象物体が立体的に配された空間に暗く静かで不気味な気配が漂う作品。もう一つは、E.L.ブレー「ニュートン記念堂」にヒントを得た中央に球体のある作品という。これらはいずれも硬質なシュールリアリズム。「涅槃」は中央に横たわる美女の周りにたくさんの生物が集まるという仏教的テーマで少し柔らかい。
次に美人画のシリーズだが、まず、美女が犬を連れている縦長の散歩シリーズの見所はポーズをとった、けだるい表情の女性とその衣装だ。それらは、江戸時代の浮世絵のようなポーズで、現代の人物画ではほとんど見られない。面白いことにジャポニズムの西洋画では着物姿の西洋女性がそうしたポーズをとっていた。衣装デザインは、驚くことに作者によるもので、細密であり源氏物語の和服の模様を思わせるものや、アフリカ風の物など様々。作者は、こうした(かなり前の)女性のファッション誌を集めていてそれらにより制作したという。
4の「遠い森から」「深い森」シリーズは、最近の作品である。いずれも3つの部分に分割されていて、それらはコラージュのように後で組み合わされて一枚となる。一見、抽象画だが説明が難しい。何か苔むした岩肌のようなマチエールは複雑で、描いたというより自然にできたような形象。作品によって木の枝、葉などが隠されている。
作者の性格もあるのだろうが、今まで公募展や個展などでの発表の機会は少なく、知る人ぞ知る存在だった。それは、晩年の渡辺省亭のように、美術界とのつながりを絶ってひたすら作品を模索したということなのだろう。
しかし通常の、細部までわからない作品写真で見てもこれらの橋本作品の特徴は、残念ながらわかりにくいかもしれない。展覧会終了後もホームページでアップされるが、これらの微細の世界にこだわった作品は、今後もぜひ多くの人に見てもらいたい。
(尚、写真は、額のアクリル越しであり微妙な反射があり鮮明さは欠け、さらに微妙な色の再現は難しい。)



「天虫図」(151×67)2007

「The World of Eden4」(96×75)2018

「The World of Eden」(114×76)2016

「The World of Eden」(113×75)2018

「The World of Eden」(84×76)2017

「蝶」(99×71)2021

「遠い森から2」(101×40)2023

「かっこよく決めました」(54×20)2013

「おめかし」(75×36)2010

「卑弥呼」(81×35)2019

「Faily」(88×29)2006

「立像」(78×41)2014

「ある日」(37×78)2019

「Paradise2」 (26×87)2019

「NEHANN」(34×102)2007

「ある日の施設から」(39×79)2013

「孵化」(28×78)2013

「ラジウム道」(55×48)

部分詳細図

部分詳細図

部分詳細図

《橋本俊宣展に》
                                  八覚 正大
 珈琲で描く画家、初めてアート・フェスタに今年出品された橋本さん、その時は抽象画に近い小品一点だけだったので、たしかに珈琲を流しつつ……少し縁掛かり、美的な抽象様式を感じさせられた程度だった……が、今回は驚くべき作品の完成度を拝見することになった。
 二十代の前半から銅版画をやられていたとのこと、そして発想もシャープで賞も獲られたことが……しかしその技法に使用する液体に中毒し体を壊されたと……。そしてアートを離れ友人の勧めもあり、テニスに関わっていき、コーチにまでなって生計を立てたことも。
それが五十歳を超えてアートに復帰し、珈琲を付けて描き出したと。珈琲だけの作品もあれば、日本画の岩砕を混ぜたり、その他いろいろ工夫もされて作品を作って行ったと……しかし目の前の作品群を見ていると、淡々と話される細身の作者の内側に、何か鋭い電流が流れているように感じられだした。作品という結果としての磁界中にコイルを入れると電流が流れだすように~~。
 とにかく一作一作に掛けてきた意匠の込め方が半端ではない気がする。初めて珈琲を用いたという作品、珈琲によって濃淡のある下地が生まれた所に、大きさの異なる格子が配置され、蝶や貝や昆虫が絶妙な感覚でさり気無なく配置されている……実物の画の存在感はそれを言葉で捉え得る感覚を、超えてしまっている~と直感が湧く。
細密画と言ってしまえばそうなのだが、細部に宿らせたそれぞれの存在物がなにかを奏でて来る……そんな感覚が湧くのだ。五線譜ならぬ〈格子譜〉に、音符ならぬ貝殻や蝶や昆虫や植物の断片・欠片が、密やかな〈存在の素音〉として掛かり配置され、鑑賞者の視線によって鳴らされるのを待っている~そんな完成度の高い作品だ。
復帰後の初作にしてそれだけの秘められた存在感を持つこの作者の作品群は、言葉にすればかなり膨大な文字数を要するだろう。それはいずれとして、大きく言えば、画面に珈琲を流して下地を作る、その濃淡、またそこに岩砕を混ぜたり……その試行錯誤を埋蔵させてなお表層に収れんさせる鋭射の技、銅版画のち密さ・繊細さを通底させ、過去の記憶の昆虫や貝や植物の断片に照射させてみせた、まさに絶妙のアートと言うしかない表現である。
 それが3.11に触発された原発であろうと、そして切断されて出現する豚であろうと、釈迦の涅槃図に自己のオリジナリティを込め全体を目のような形にしたり、女性たちを一見さり気無く描きつつ、その頭部をデフォルメさせたり、衣装を克明に描きつつそこに実はシュールな位相が織り込まれ、また奇態な動物がさり気なく配置されたり~~。
 珈琲という画材、そして銅版画の技法、更にはテニスというスポーツのジャンル……それに依拠して語ってはこの作家の作品には到底届かない。透徹した感性を幼いころから持ち続け、脳の様々な層にデフォルメされ宿っている〈この世で関わった存在たち〉を、珈琲という流体に浮遊させた場を作り、そこに銅版画の技法に裏打ちされた個体のディテールを顕在化させながら、一つひとつの作品にその大なり小なりの世界の構成(それは思想性と言ってもいいほどの)を創り上げている。
 現在は、より抽象度の高い方向へ進まれているようだが、今回出逢った、作者が五十歳を過ぎて珈琲に出逢い再び作品を創り上げていったそれからの十年二十年のプロセス(足跡)は、驚嘆に値する行為として強くエールを送りたい。